1992-04-07 第123回国会 参議院 内閣委員会 第4号
それで、最終的に各部隊が、兵団長、それから部隊長、そういう人たちが、あるいは幹部、そういう方が積極的に説得に動いたわけです。その結果、二千六百人という方が残留をしたわけです。ですから、それにおいてもできるだけの説得をしています。部隊が二十一年の三月に、今お話がありましたように、復員する直前まで説得に努めております。
それで、最終的に各部隊が、兵団長、それから部隊長、そういう人たちが、あるいは幹部、そういう方が積極的に説得に動いたわけです。その結果、二千六百人という方が残留をしたわけです。ですから、それにおいてもできるだけの説得をしています。部隊が二十一年の三月に、今お話がありましたように、復員する直前まで説得に努めております。
南部戦線は特連局長も総務長官もご存じでしょうが最後の激戦地、あそこで牛島兵団長、長参謀長が自決している。その下のほうにかなり広い斜面があります、今ここは雑木雑草が密生、族生している、この中に相当数の参謀長あるいは兵団長と行動を共にした軍人あるいは軍族、あるいは民間人が果てたということは、当時の情景からしておおむね適当な私は判断だと思う。
軍司令官は私は知りませんが、私の兵団長は、私に対して、私の残留というものを命令しました。お前は兵団の命令で、残留に必要な人間だから残るようにというふうに命ぜられて、私は残留しました。
それから兵団長は塁兵団の元泉少将が残られました。これは残っておられましたが、たとえば百十四師団の参謀で、三人の参考人が言われました太田黒参謀は帰っております。それから大隊長クラスでは砲兵の大隊長が二人、それからもう一人あったと思いますが、まだあったかもしれません。私が今思い出します範囲では三人くらい残られて、あとは帰られました。三人残られまして、あとは全部帰っておられます。
これにはやはり、私のおつたところは塁兵団で、兵団長は元泉少将ですが、ここにおいては、兵団長自身が残る、また兵団の大部分を残す、こういつた意向を持つておりましたが、各大隊に対して一定数の人員を残す、また各大隊においては各中隊において一定の人員を割当てまして、私自身もこの業務につきました。このようにして、第何中隊は将校が何名ぐらい、下士官が何名ぐらい、兵がどれほど、このように割当をしました。
それから、山西派遣軍の中の各兵団長、この方には将兵団の三浦中将、この方も途中からお帰りになりました。それから元塁兵団、これは独立歩兵第十四旅団、ここの兵団長をやりました元泉少将、この方は作戦中において戦死されました。それから独混三旅団、ここの高級参謀と申しますか、この方が今村方策大佐、この方は十総隊、当時日軍の部隊、これを最後まで指揮しておつたところの人です。
しかるところ六月十五日、小笠原島は第一回の大空襲を受け、戦争の事態が逼迫して来たという理由のため、当時第百九師団長であり、かつ小笠原兵団長の栗林中将は、老幼婦女子を戦闘の惨烈性に加えたくないこと、またこれらの人々がいる場合は戦闘の足手まといとなつて日本軍の用兵作戦上能力を低下させるおそれがあるとの理由によりまして、すみやかに島民を内地に引揚げさせたい旨の意見を具申して、陸軍大臣及び参謀総長に打電したのであります
従つてフイリピンの軍司令官や兵団長に聞いてみましても、実際にどのくらいおるかおれにもわからないが、とにかくあつちの方に一中隊、こつちの方に一中隊というところがほんとうだ。また来る途中の海沒が非常に多いらしいのです。調査は今復員局で整理してやつておりますが、事実数の問題はやはりむずかしいのではないかと思います。この三つの方面から調べて、五百名内外がほんとうだろうということであります。
それで兵団長閣下は柴閣下でありますが、三ケ村の村長を呼んで、こういう大隊のこういう古い兵隊は船に間に合わなかつたために還すことができない。
○中野重治君 増崎証人にお願いしたいのですが、これは増崎証人自身に関することじやなくて、先程大河原証人の言葉がありましたが、大河原証人の場合は、私が理解するところではソヴィエト赤軍につかまるまいとして、漁師や百姓に化けて帰ろうとしたけれどもつかまつて、そうして罪になつたと、こういう形になつておりますが、これは無條件降服後、無條件降服の中身を、先に帰つてしまつた兵団長その他が、部下の下の方の兵卒にまで
岡本証人に伺いますが、私が今説明したように、そういうことは大河原証人等々が処刑されねばならなかつた本当の原因というものを考えれば、これは降服の問題を、先に帰つてしまつたような兵団長その他が下の方へ十分徹底させて置かなかつたところにあつたのだ。本人の犯罪意識というものは殆んど濃厚ではなかつた、こう受取つてよかろうかと思うが、あなたとしてどうお考えになりますか、お感じになるかというのでもいいです。
二千五百八十六名は、元支那において兵団長隅田雷四郎三十九師団に及びます戰犯の刑を受け、残る人員は全部今年の六月から同收容所において約五十日間軍法会議が開かれまして処罰を受けたのであります。
戰闘が終りましてからも全然戰線は、師団長、或いは兵団長が先に逃げてしまつて、第一線の部隊は置去りにされるという状態で、十四日詔書が下つたということは全然分つておらなくて、戰闘状態にあつたということであります。